(2)両親からの暴力を耐えた毎日希望はあるのか

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両親からの暴力を耐えた毎日希望があるのか

【猫ピカイアこと光乃 樫穂の生い立ち】

両親から「役立たず」と怒鳴られ叩かれて育ちました。

でも私は、この「たたく・怒鳴る」両親から

可愛がられたいと思って生まれてきました。

家庭内暴力の家族連鎖は、

不幸が続きます。

お母さんがした苦労を娘さんも結婚して

同じ苦労を味わいます。

そして、娘さんの子供も大きくなって結婚すれば、

おばあちゃんやお母さんが味わった

似たような苦労をするのです。

不幸の連鎖を断ち切ることを追い求めて来ました。

不幸の連鎖を断切ることが出来たのか?

****ある日の告白****

「喜代子ちゃん、あんたは、

赤ちゃんの頃から両親から殴られていたんや・・

だから、わしら夫婦があんたを守った。」

「あんたのおかあちゃんが、あんたを叩く時、

うちのがあんたの上のにかぶさってかばったんや・・

でも、あんたのおかあちゃんの勢いは止まらず、

うちのを叩いたんや・・・

そのときの痛さはとんでもない痛さやったと、うちのがいっていた。」

小学校の6年生ぐらいのときに、

私を可愛がってくれていた小父ちゃんから聞きました。

そのとき、私はどんな言葉を言ったのか覚えていません。

親から愛されない子供なのだと言うことが分かっただけで、

頭の中が真っ白になったような記憶があります。

私の両親は商売をしていました。

私は、幼稚園に上がる前から、両親とは別に、

この小父さんと小母さんのお家で暮らしていました。

商売が忙しいから、子供を預けるところが無いからと

いうのが、母から聞いていた話です。

親戚でもなんでもないご夫婦が、

幼少の私を可愛がって育てて下さっていました。

私は、そこの小母さんに、なついていました。

小父さんの告白によって、小母さんと私の関係が一気に分かりました。

たまたま近所になった小父さんと小母さん、

狂ったように幼児の私を殴る母を見て、

これでは可哀そう過ぎると、幼児の私を預かって、

育てる決心をされたのです。

私は10歳まで、小母さんと一緒に暮らして、

一つのお布団で一緒に寝ていました。

父と母もいたのですが、私は小母さんとの生活しか覚えていません。

10歳のある日、小母さんは突然死にました。

ただただ悲しかったです。

亡くなった小母さんの枕元で、

これから自分はどうやって生きていけば良いのだろうと思いました。

優しく育ててくれた小母さんが亡くなって、

ポツンと家の中で一人ぼっちになった気持ちでした。

いつ頃まで泣いていたのか分かりませんが、

どうして死んだの?

どうして死んだの?

という考えだけが、グルグルと回って、

胸が締め付けられて、涙がボロボロ出ていたのを覚えています。

優しい小母さんの死は、父母の暴力の始まりでした。

「小母さん育てられた方、躾がなっていない!」と言っては殴られ

「下手な掃除だ!」と言っては、殴られ、

「お茶碗が洗えていない」と言っては、殴られ、

なによりも、子供の私にわからない言葉がありました。

「父や母に気を遣え!」という言葉です。

「気遣いが足らない、なにも出来ない」と言って、殴られていました。

親に気に入れらようと頑張っても、親のほうが上手です。

何をやっても叱られて殴られる。

私が15歳ぐらいになると、父は怒鳴りましたが、父からは殴られなくなりました。

母は相変わらずでしたが、世間体をすごく気にするので、

洋服・食べ物は、そこそこ与えてくれました。

6歳下の妹が、反抗期になった時は、母は妹に食事をさせませんでした。

食事をさせずに、言うことを聞かそうと、激しく妹を罵っていました。

それで、妹は、友達とよく家出していました。

家出すると、母はものすごく優しくなる、それも束の間で

すぐに元の木阿弥で、怒鳴ったり、罵ったりが始まったと、

妹が成人して話してくれました。

父と母から怒鳴られて、罵られて、殴られても

子供の私は「私が馬鹿だから、勉強できないからだ、

気が利かないからだ」と思っていました。

勉強できないのも、

気が利かないのも、

父や母からの恐怖の刷り込みだと、気が付きませんでした。

恐怖の刷り込みによって、気持ちがそぞろになるので、勉強も出来ません。

成績が悪いのも幼少の頃に、さんざん馬鹿にされて「アホで馬鹿」と

いうセルフイメージを植え付けられているのです。

幼稚園から小学校低学年の頃、

どこの子供も素直です。

習ってきたことを親にお話しします。

そうすると、私の父も母も腹を抱えて

馬鹿にして笑うのです。

「そんな簡単な事を習って、バカバカしい!

お前は本当に馬鹿だ!」と

習ってきたことに対して、

罵声をあびせ、

嘲笑われるのです。

こんな事を2回でも繰り返されたら、

本当に勉強が一文字も脳に入ってきません。

(余談ですが、中年になってある資格試験を受けると合格したんです。
その時、親が言うほど馬鹿じゃないなって、思いました。(笑))

長男の兄は勉強が出来て優秀でした。

勉強出来る子は親の自慢の子になります。

私は、親の自慢の子ではなのだと思いました。

親は、私を「お前はアホだ!」と殴れば、

「お前は馬鹿だ!」と怒鳴れば、

私が勉強が出来るようになると考えたのでしょう。

勉強のできる兄は、父母からなんでも買ってもらえます。

兄は、お友達同士でお出かけするときも、お小遣いを貰えます。

私の場合は「映画にお友達と行きたい。」というと、

「勉強できない子が何を言っているの!」と怒鳴られて終わりです。

「お兄ちゃんのようになって!」とよく言われましたね。

中学生になったある時、母に言いました。

「兄と私と差別している!」と

母に言いました。

次の日に、母が私にお小遣いをくれたのです。

なんと 5,000円も!

そのあたりから、親に反抗していきました。

「お前は馬鹿だ!」と言われても

「遺伝でしょ!」と返していました。

私が短大の入学式が終わったとき、母が私に向かって

「名前の知れていない、だれも知らない短大に入った。」と

文句をいわれました。

世間体で、短大には行かせるけれど、

親が世間に自慢できる短大ではない。

「短大の授業料がもったいない。」と言われました。

短大に行くような年齢になると、

親から何を言われてもへこたれません!

反抗心マンマンで生きていました。

『親とは絶対に反対の生活をしよう』と、

そのために短大へ行くんだと息巻いていました。

短大を出れば、働いて自立した生活できると思っていました。